2003年12月号 「契機」/うひょあらき

 僕の受信箱に書類の束が放り込まれた。それを横目でちらりと見る。さらに、違う職員により先ほどと比べて薄いが、それでもまだ厚みのある書類の固まりが置かれた。今度は横目でなく正視した。これを今日中に処理しなければならない。僕は周りに気づかれないように大きく息を吐いた。多すぎる仕事量だった。まだ新米の僕にとっては。

 「荒木くーん、ちょっといいかーい」
 僕とは10m以上離れた位置にある総務部長席から間延びした声が飛んできた。僕は席を立ち、総務部長の前に進んだ。
 数枚の紙が僕に向けて机の上に置かれた。『てるこ』からの請求書だった。

 『てるこ』は支社の若手職員がときどき行くスナックだ。二次会は必ずといっていいほどここで行われる。僕たちにとってスナックと言えば『てるこ』なので、そこのママにしてみれば、飲む酒の安い生命保険の平社員は上客とは言わないまでも、暴れることなど決してない大事なお得意さんのはずだ。そのせいか僕たちには若干甘く、持ち合わせの金が少なければ、それをツケといてくれる。もっとも、財布に札がたっぷり入っていても、酔った状態で割り勘の計算をするのは面倒なのか、ツケといて、と言うことも多いようだが。

 『てるこ』のツケは2、3回分がたまると請求される。請求書が送られてくる先は支社だ。これは何も嫌がらせではない。多数の職員がツケをしているので、支社に郵送したほうが手っ取り早いのだ。『てるこ』のママには、1回の飲み代をどのように割り勘するなどわかるはずがない。
 送られてきた請求書から対象者ひとりひとりの金額を計算し、徴収して回るのは、入社して1年目の下っ端である僕の仕事になっていた。ツケをすることは何もいまに始まったことではなく、総務部長も今までに何回か請求書を目にしたことがあるはずだ。そしてツケをすることに関して何も言わなかった。が、今日は違った。
 「天下の○○生命がこんないい加減なことをやっていてはダメだ。お前は自分の仕事を後回しにして、こっちを優先してやれ。すぐにお金を集めろ」

 総務部長のお怒りの原因はそのなかにある、1年以上前の1枚の請求書にあった。僕の会社は3、4年で異動になるケースが多い。その請求書に並べられた名前のなかには、もう転勤して支社にいない人たちの名があった。たぶん、お金を取りそこねたため、そのまま放置されていたのだろう。それがなぜ、いま、総務部長の目についたのかは知らないが。
 新しいツケには僕の名も入っている。これは僕にも責任があるので文句はない。しかし、すでにいなくなった人の分のお金はどうすればいいのだ。総務部長はこれも精算しろと言っているのだ。総務部長は、古い請求書に書かれたメンバーのなかの数名がもう支社にいないことぐらいわかっている。これは遠まわしに僕に自腹を切れと言っているのか。それとも、いまいる若手職員で割り勘しろと言っているのか。

 一番頭にきたのは、仕事よりこっちを優先しろと言っていることだった。○○生命が天下なのかどうかは知らないが、僕にとっては、受信箱に入っている仕事をさばくほうが大事だ。好きでないとはいえ、僕は仕事をするために支社にきている。請求書の精算は仕事が終わってからでもできる。『てるこ』のママもきっと言ってくれるだろう。そんなの仕事が終わってからでいいよ。ちゃんと払ってくれればね、と。

 なんかアホらしくなってきた。もうやっていられないと思った。僕はこのことを契機に会社を辞めることを決意し、世界一周の旅に出ることになった。だから、いつか総務部長に会うことがあったら、僕はこういうつもりだ。総務部長のおかげで海外旅行ができました、と。軽く皮肉をこめて。


 「 あらきさ〜ん、行かないでぇぇぇ。あたしのそばにいてぇぇぇ!」
 って 言ってくれたら世界一周なんてしなかったのにね。だ〜れも止めてくれんかった・・・ううっ、みんなけっこう冷たい・・・。


うひょあらきさんの個人HP「旅、大好き!!!」もご覧ください

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