2003年10月号 「山の中で交わした日本語/台湾」 西牟田靖

 グレート寅さんと命名したカブにまたがって、ここ3年ほど旅していた。氷結した道で何度も転倒した冬の北海道、船で行った沖縄の離島の数々、がけ崩れが止まない四国の剣山、稲穂の垂れる佐賀の農村。ルートも期限も決めない気ままな旅だった。
 行き先は国内に限らなかった。ときにはカブから降り、北朝鮮に"潜入"したり、冬の旧満州(中国東北部)、南国のミクロネシアと足を伸ばした。
 バイクで走ったのはサハリン、韓国、台湾。サハリンへはカブで渡った。2千キロ以上のダートを走り往復縦断。韓国では中古スクーターを買って走った。北朝鮮との軍事境界線めぐりから島めぐりまで、釜山からの時計回りの一周。今回話をする台湾は’01年9月、反時計回りでの一周だった。


2001年09月07日/3千メートルを越える武嶺の峠へ
2千メートルを越えるとスクーターのスピードが急に落ちたが...

 カブを持ち込めなかったので、現地で125ccのスクーターを借りた。台湾では国際免許が使えないから、外国人には貸したがらなかった。現地在住の日本人に仲介してもらい、なんとか台北から走り出せた。
 日本と逆の右側通行。舗装はしっかりしていた。標識は漢字なので理解出来た。バイク専用レーンが整備されていたりして、スクーターの数は半端になく多いとはいえ、日本の狭い国道よりは走りやすかった。
 郊外に出ればさらに気楽なもの。交通量も信号も数えるほどとなった。ダイナミックな自然を満喫できた。
 一番高いところを極めようと思い、一周の途中、寄り道した。峠を目指した。ここ台湾の面積は九州の8割ほどの大きさなのだが、山々の標高は日本よりも高い。4000m近くの峰々が南北を貫いている。最高地点を目指さない手はない。
 標高が上がるたびに沿道の植生がどんどんかわっていった。ふもとの方ではヤシやバナナの林だったのに、そのうち杉など針葉樹の林にとってかわった。2500メートルを越えるとみるみるスピードが落ちた。濃霧だったこともあり、そこから上は小走り程度にしか登れなくなった。気温も下がった。台湾公路最高地点(3275m)まで登りつめたとき、まだ9月初旬なのに息が白かった。


2001年09月17日/パイワン族のカンペさん家の表札はカタカナだった

 山間部には平地と明らかに違う人たちが住んでいる。最高地点に向かう途中もそれらしき集落のそばを通った。目鼻立ちがはっきりしていて精悍で浅黒かったりする。彼らは少数民族。最初に島に住み始めた人々だ。
 東部の山間部を走っていたときだった。アミ族という人たちの集落に立ち寄ったことがあった。おなかが減っていたので何か食べようと思い、集落の唯一の店であるよろずやに入った。パイプをプカプカさせている、いかにも少数民族といったおばちゃんがひとりで切り盛りしていた。
 「なぜこんな山奥までこられたの?」
 僕が日本人だと気がつくと日本語を話した。外見とは裏腹。実に流暢だった。
 「アメリカが戦争(アフガニスタンへの攻撃のこと)始めちゃったねえ。嫌だねえ」
 同時多発テロの驚きから覚めやらないときだった。おばちゃんとの話が盛り上がり、そんなことまでが話題になった。
 日本が戦争に負けるまでの半世紀、台湾は日本の植民地だった。住民は日本語を叩き込まれた。少数民族はそれまではそれぞれ違う言葉を話していて言葉が通じなかった。ちょうど日本語が共通語となり、いまだに日常的に使われているらしかった。
 そういった予備知識は持っていた。だけど実際にこんな異国の山の中で日本語を聞くのはなんだか不思議な気分。ここがどこだか一瞬わからなくなった。一方で妙にホッとしたのも事実。
 スクーターで旅してよかったと思った。


2001年09月22日/台北駅に到着

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