第28回WTN-Jお話会

国境という壁 パナマーエクアドル、バイク通関で揉めた67日


パナマ、トクメン空港

日時:2010年5月9日(日)14:00〜16:30
会場:目黒区民センター 
話し手:坪井 伸吾さん
レポート:松澤 亮
写真:古山 隆行
参加者:43名

 今回は話し手と司会で一人二役の坪井さん、その話はWTN−Jと海外バイクツーリングの歴史から始まった。そして自己紹介を兼ねて今までやってきたバイク以外の活動、本にもなったアマゾン川イカダ下りや、人力車、釣り、自分の限界を知りたかったというアメリカ大陸単独マラソン横断、キリマンジャロ登頂等が紹介された。特にキリマンジャロに登ってみて初めて山の魅力を知ったというあたり、ぶっつけ本番で失敗も多いし効率が悪くても、まず実際に経験してみてわかる事がある、という坪井さんの行動哲学が垣間見られる。

 1989年、アラスカからスタートした北中南米バイク縦断、輸入関税を免除してもらうためのカルネ(結局、当時アメリカはカルネを発行していなかった)、保険を掛ける為にアメリカの運転免許取得、北極海目指して行けるところまで走ったりしているうちに時間が過ぎてゆく。北極海目指して走った時には米軍のゲートで止められたが、警備兵は無理をしないという条件で黙認してくれた。結局アイスバーンが酷くて北極海まではたどり着けなかったのだが、自分が行けるところまで行った事で納得できた。検問所へ戻ると先程の警備兵がコーヒーを淹れて待っていた。
 ようやく南下の旅が始まり、カナダでは南米から北上してきたノルウェー人ライダーと出会ったり、ガス欠になってヒッチハイク(どんな人にどこへ連れて行かれるか分からないのでヒッチハイクも結構怖い)でガソリンを買いに行ったりしつつ南下していった。そしてサンフランシスコ大地震に遭遇。資金も乏しくなりバイトも見つからない。そこでどうしたか。ラスベガスで大勝負である。もちろん負けるつもりで一回1万円以上のスロットマシーンをやった訳ではないと思うが、ジリ貧になるよりも挑戦して失敗する方を選ぶというところが坪井さんらしくて潔い。勝てば南米、負ければ帰国、見事に負けて日本へ出稼ぎに行き、半年で150万円貯めた。

旅を再開してメキシコに入ると、いきなりラテンアメリカのカルチャーショックに見舞われる。銀行に行っても金が無い。ガソリンスタンドへ行ってもガソリンが無い。でも現地人は気にしない。ガソリンはそのうち届くから大丈夫。お釣りが無いから賭けで決めよう。時間や効率、仕事に対する価値観が全く違う。もうこうなったら、これも面白いと思って受け入れるしかない。坪井さんは北中南米バイク縦断に至るまでに、アメリカやヨーロッパでツーリングを経験して世界を知った気になっていたが、発展途上国がどんなところなのか全然分かっていなかった事を思い知らされた。そして美しいカリブ海を見ながら何かを悟ったのだ(と思う)。
 坪井さんは、メキシコから中南米諸国を南下して行く。ベリーズ(護衛の犬がいるキャンプ場の思い出ぐらいしかない)、グアテマラではティカル遺跡を見たり、不自由を感じていたスペイン語の勉強をした。2週間のホームステイ中には煙の噴き出る火山にも登った。内戦中のエルサルバドル、ホンジュラス。
 ニカラグアは当時インフレが酷く、ドイツ製の1千万コルドバ札(10ドルにもならない)や、新しい額面がハンコで押し直した札が出回っていたし、金が紙屑同様に路上に落ちていた。こんな状態では現地通貨は全く信用が無く、米ドルか金で持っていないと安心できない。坪井さんも「お金って何だろう?」と考え込んだ。パナマは、中米諸国の中で最もアメリカナイズされた都会である。バイクの部品をアメリカから取寄せて大掛かりな修理をするなら最後のチャンスだが、リヤサスの修理は高かったので結局やらなかった。パナマには、というより中米にはパナマ運河ぐらいしか見る物が無い、と坪井さんはいうが、それはその前後にメキシコや南米をたっぷり見た人だから言える事で、普通の人にとっては充分すごい国なのだろうと思うが。

アラスカからパナマまでは結局カルネもいらず国境も(闇両替との騙し合いやタチの悪い役人や警官を除けば)問題なく通過してきたが、ここから坪井さんの揉めに揉める旅が始まる。パナマシティーに入った時、坪井さんは現金が20ドル程しかなく、週末で銀行も閉まっていたので米軍のツーリングチームに転がり込んだ。ここには多くのバイクツーリストがノートに残した情報があった。その解読から始めたが、一筋縄ではいかなかった。
 パナマから南米へはジャングル地帯で隔てられており、そこを通過できる道路は無い。そのため自分で何らかの移送手段を見つけなければならない。(坪井さんたちが苦労した後、カーフェリーで楽に行けた時代もあったらしい)。海路は問題の港町が世界最悪の殺人都市で、後に坪井さんはその町の周囲を走って偵察したが、ヤバすぎた。殺されないまでもバイクを盗られずに無事に済むとは思えなかった。乗せてくれそうなヨットを見つけることもできず断念。空路もバイクを空輸可能なルートは選択肢がほとんど無かった。
 この時点ではまだどのルートが可能か分かっていなかったので、コロンビア、ベネズエラ、エクアドルの各航空会社、カルネを作るために領事館や大使館を回るが、どこでもカルネの事を知らない。カルネは不要だと言っていたのがやっぱり必要だったり、ビザを出さないと言い出して日本大使館に一筆書いて貰ったり、あまりにもあんまりなので「カルネが不要ならカルネ不要という書類を書いてくれ」と頼み、すったもんだの末にエクアドル大使館から一筆取る事に成功した。パナマでは知合ったスペイン人夫妻や日本人ライダーと4人タッグでバイク移送問題に取り組んだのだが、彼らだってカルネとは何なのかも知らなかった。その間、運河を見に行ったり、米軍ツーリストクラブを追い出されたり(2週間も居候していたのだから仕方ないが)、パナマのジャングルを通過できる道路は無いにしても、道がつながっている最後の村までは行こう走るが泥濘が酷くて途中で敗退。それでも挑戦したことで諦めが付いた。そうして時間が過ぎていった。
 結局エクアドルのキトへ飛べることになり、パナマの空港まで行ったがここでも揉める。オーバーブッキングで予定の飛行機に乗れず、空港で寝泊りするハメになった。ようやく3日後の飛行機でキトに到着するが、今度はバイクが届かない。結局バイクが届いたのは1ヶ月後。その間クリスマス休暇や正月休みをはさんで埒が明かないのでアマゾンや海へ行った。
 エクアドルの税関で輸入関税を要求され、大使館で書いて貰った「カルネ不要」の書類を見せたところ、これが不要どころか新車の150%の税金をかけると書かれていて、見事にやられた。結局72時間以内に国外退去と宣告され、監視の警官も伴走ではなくバイクに同乗するという。頭にきたので無理やり2台分の荷物を1台に積み、もう1台に2人乗りでペルー国境までの650kmを1日で走り切った。
 ペルーでも揉めていた。ストライキで1本しかない道路が封鎖されており、バリケードがあったが、坪井さんはバイクだからなのか通して貰えた。この後はどんどん南下する。海岸砂漠を走り、雨季のアンデス越え、チリでは走行中にバイクが炎上し多くの荷物が焼け焦げた。旅行保険で被害を回収するためには、警察に証明書を書いて貰わなくてはならない。中南米では警察や役人に書類1つ作って貰うのも簡単では無いのだが、訪れた警察署で焼けたテント、焦げたフライパンを机の上に並べると、警官は我慢できなくなって大爆笑。笑わせればしめたもので無事に書類を作って貰い、保険金を受け取ることができた。
 パタゴニアのもう少しで南端まで行ける、という所で遂にバイクが壊れ、売却した。 結局カルネを取得することも使うことも1回もなく、持込んだバイクを売却して出国する際にもトラブルにはならなかった、そんな坪井さんの旅だが、これもまたやってみなければ分からなかった事だろう。坪井さんでなければ突破できなかった事も多かったかも知れない。何しろ坪井さんは何人だか分からない(というより何人にでもなれる?)風貌の持ち主だし、今でも年齢不詳だ。

この旅で坪井さんは「自分が何も知らなかった事を知った」と言う。やっぱりソクラテスは偉いのだ。最後に「自分が同じ状況にいたらどうするか考えて欲しい」とも言った。まだ携帯電話もインターネットの情報も無く、冷戦が終わったばかりの時代、麻薬とゲリラとインフレが蔓延し混乱の極にあった中南米。その場に自分がいたらどうしただろうか?坪井さんの旅はもう歴史的な意味を持ち始めているのだと思う。